沖縄回想録

2004年10月18日 松野聖史

【要旨】
 修学旅行で2004年10月14〜17日まで沖縄を訪れた。3泊4日の行程の中で一番印象に残った初日の平和学習中心の日程の中で、気が付いたことなどをまとめた。
【キーワード】
 沖縄 修学旅行 回想 思い出 床屋 かたりべ 戦争 ガマ 平和

 14日。約10年ぶりに訪れた那覇空港。空港から出ても、あんまり「沖縄にきた」という実感がなかったのがほんとのところだった。秋だったからか、台風23号の影響か、曇っていたので比較的涼しかったからかもしれないが、暑いなぁとか、南国だなぁという実感は全くなかった。
 さて、バスに乗る。修学旅行ではきまって、新人ガイドという印象があるが、今回はそうでもなかった。町の中を走る間、伝統のウチナー音楽をうたってくれたり、建物の説明や歴史などを、棒読みでない丸暗記でないガイドをしてくれたので、いろいろ印象に残った。まずは、岩の下に小判が埋まっているというはなし。掘って見つけたときには3割をバス会社へというオチのついた話だった。それから、建物の話だ。シーサーが屋根から門柱に下りてきたという話や、家の玄関に入るところにでかい壁があるのが旧家で、右が、金持ちや身分の高い人、年配の方のとおりみちで、左はそうでない人がとおって玄関へ進んだということだ。そうやって説明されてから各家を見ると、たしかに、赤がわらの旧家らしき家にはたいてい壁があるのがわかった。
 初めにひめゆりの塔と資料館へ。資料館では遺品や実際の話のビデオなど、いろいろと知ることができ考えさせられた。その後、平和祈念公園をおとずれる。ここへは10年前にきたようなこなかったような。あまり記憶になかった。戦死者の名前を各県ごとに掘り込んだ碑があり、その向こうに博物館があった。海の見えるほうから噴水のほうを向くと、一直線になるという建築物の意味などを知った。僕は、よく似た建築物には出会っている。広島の平和公園のモニュメントだ。折鶴を置く貞子の像と、平和公園の中心の噴水、平和記念館がこれも一直線になるのである。平和記念館で思い出した。毎年8月6日午前8時15分。全国ニュースで生中継される広島の平和祈念式典。NHKのテロップは「平和記念式典」。実際に現地でいただく式典プログラムには「平和祈念式典」。全国の人は「平和になってよかった日」としてしか取られないんではないかといまだに気になる一文字の違いである。広島の人々は、「平和を願ってやまない」式典の意味があると思うのだが。NHKという、国民放送はなぜずっとこの一文字を変えてテロップを出すのであろうか。
 その後、ガマへ向かう。いわゆる防空壕だ。ヌヌマチ壕というところへ向かう。向かう間、那覇の街中をとおったのだが、とても気になったことがあるので、ガマの前に書いておこう。
 それは、床屋の多さである。道路の両脇にとにかく床屋が多い。ヘアーサロンから美容院、散髪屋。看板や文字は違うものの"あおあかしろぐるぐる"は店先にあるのだ。しかも、特筆すべきことがある。値段が安すぎる。岐阜では、最も安いところでも、それが格安のチェーン店であってでさえも1800円だろう。沖縄は平均1000円くらいのようだ。なかには800円というような看板もあった。1000円も安いのだ!! そんなに店が多くて、そんなに安くて経営ができるというのはどうなっているんだろう? と気になって仕方がない。勝手に考えて申し訳ないが、需要と供給から考えると、これだけの安値がふつうということは、きっと沖縄の人はそれほどまでによく床屋に行くと考えるしかない。10年前に、沖縄の家は低い家が多いが、それは台風がよくくるからだと聞いたことがある。沖縄の人の髪の毛は台風がよくくるのでよく伸びるのではないのか?? (因果関係がないかも?!) とにかく、行けども行けども床屋があり、安い値段であるのがとても気になったのでここで書いてみた。
 さて、ヌヌマチ壕だ。初日が平和学習中心の行程であるので、それまでにいろいろ訪れて、考えさせられてきたこともあいまってか、今回の修学旅行で一番僕のこころの中に残って離れないのがこのガマの訪問なのだ。ヌヌマチ壕は、病院として使われていたガマで、多くの負傷兵たちがこの中で手術を受け、そして病室に寝かされていた場所だった。
 ボランティアガイドをしてくださった方は、タクシーの運転手をしている方だとのこと。直接経験をされた世代がどんどん高齢になっていることをアピールされ、忘れてはいけない"戦争"を語ってくださった。ガマの入り口は、当然ながら狭く、中へは非常に入りにくい。敵軍に見つからないようなガマの構造上仕方がない。その狭い道を案内の元に足元に気をつけながら入ってゆく。まず、鍾乳洞のような入り口につくまででさえ、わずか20メートルくらいの急坂をクラス全員で動くと時間がかかった。手術室として使われた穴を覗き込んで、その入口の狭さや、奥の暗闇にいろいろなことを感じながら、いざ、病室として使われた大きな洞穴のあるところへと進んでいった。鍾乳洞のように天井からは多くの水滴がぴちゃんぴちゃんと落ちつづける中、100円ショップで買ってきた懐中電灯を片手に、軍手をはめゆっくりとぬかるんだ足元に注意しながら進んでいった。自分ひとりででもすべる足元に苦労して中に進んだのに、患者をどうやって洞穴まで運んだのか、とても想像ができなかった。負傷した方々がどんどん手術後にこの暗い闇の中に寝かされたという。やっとの思いで、広い洞穴に出た。天井を見ると、多くの鍾乳石のツララが折られており、ガマの中を病室として使用していた痕跡を感じた。
 全員が大きな部屋に集合した後、案内の方が、いろいろな説明をしてくださった。かなり広く感じたその洞穴は、天井からの水が足元をぬかるませ、年中こんな状態だという。大きさは大体広めの教室くらいだろうか。この中にベッドなどもなく直接床に負傷された方々が寝かされていたという。ごつごつした足元を見ながら、"戦争"というものの一部を肌身で感じることができたと思う。手術を受けられる方はまだいいほうで、そのまま重症患者が寝かされていき、奥に見える更なる病室へとどんどんどんどん運び込まれていったという。奥からは鍾乳洞ならではの涼しい風が吹いてくるのだが、なんとも言葉では言い表すことのできない気持ちになった。
 案内の方が、1分間の黙祷を提言され、生徒たちはみんな懐中電灯を消し、黙祷をした。静かな中、奥から吹き込んでくる風と、ぴちゃんぴちゃんという音。長い長い1分間であった。その後、しばらく懐中電灯をつけないで、案内の方が話をされた。隣の生徒の顔も見えず、まさに真っ暗だった。こんな中に負傷された方々はずっといたのか。夜だか昼だかまったくわからず、気が狂ってしまう方もいたというが、入ってほんの少ししか経っていないのにその気持ちがわかるくらいに暗闇というのは恐ろしいものであることを身をもって体験した。その後、案内の方が懐中電灯ひとつだけをつけ、天井を照らすと、周りがボオッと明るくなった。一筋の光ならぬ、1個の懐中電灯の光に、安心が生まれた。当時この中にいた方々も、こんな気持ちだったのだろうか。
 その後、色々な話を伺ったがひとつだけ印象に残った話があるので紹介したい。よそのガマでは、敵軍が近づいてくることで、捕虜になるよりは死んだほうがよいと集団自殺したというところがあったという。また、別のガマでは、直接交渉に向かった方がいたことにより、ガマの中の民間人が全員助かったという。案内の方は言う。「平和とは相手と話し合える勇気があるかどうかから生まれるのではないか。」交渉したことにより、多くの命が助かった。人の命より尊いものはない。そのきっかけは、勇気をもって相手と話し合うことができたことから始まった。敵軍が目の前で鉄砲を持って向かってくるときに、逃げるのではなく、話し合う勇気をもつことだという。世界の戦争の多くは、一部の権力者が相手と話し合う勇気がないために起こってしまっている。この言葉に、僕は"戦争"と"平和"に関する大事なことを学んだ。
 その日の夜には、ホテルで、当時看護婦として働いていた女学生としての経験を語ってくださるという学習会が開かれた。もうだんだんと生き証人であるかたりべの方も高齢になって、今語らないといけないという強い意志を感じた。その当時の話を色々と伺った。教育によって、お国のために戦地にむかえることが美徳だと考えていたことや、日本は勝っているという誤情報を信じて疑わなかったことなど、教育の影響の大きさを目の当たりにした。看護婦として働く中で、その方が言うには、兵隊さんたちは亡くなる間際に「天皇陛下万歳!」といって亡くなるということを学校で習ったのだが、実際そんなことを言って亡くなるなんてことはなかった。みんな「お父さん、お母さん」とつぶやくだけだったという。
 手術をしてもらえるのはまだいいほうで、ほとんどはただ治療もしてもらえずガマの中に寝かされているだけだった。「学生さんくらいの娘がいるんだ、お父さんとよんでくれないか?」というように声をかけられたり、傷口にうじが湧いて痛くて眠れないというので、一匹づつとってあげると安心して眠ってくれたというような体験も伺った。看護婦として夜昼がわからないくらい働いたという。お国のためになるんだからとがんばったのだという。ついに敵軍が見えるくらいに近づいてきたら「動けるものは北へ逃げろ」という連絡が来て、一斉に逃げたことがあったそうだ。ガマの中の動けない負傷兵の方々を捨てて逃げるのは忍びなかったという。一度途中で引き返したときに、軍の人に「早く逃げないか!」と言われ、「多くの負傷兵の動けない方々はどうなるんです?」と聞いたら「トラックでいっせいに移動するから安心せよ。」と返事がきたので安心して逃げたという話があった。本当はうそで、多くの負傷兵の方々は見捨てられたということだが、かたりべの方は、つぎのように続けた。
 "戦争で一番恐ろしいと思ったことは人が人でなくなることだ"と。経験していないとその言葉の重みは完全には捕らえられないものの、僕の心に強く残った言葉だった。また、日本が負けた後、看護婦女学生らに解散命令がきたときに、当時の先生が言っていた言葉が印象的である。「おまえたち、なんとしてでも生き残ってくれよ。友達が倒れてもかまうことなくとにかく北のほうへ逃げろ。そして、後の世代に戦争でこういう事を体験したということを語れよ・・・。」その先生の言う意味が当時はわからなかったというが、今になると立派な先生であったと思っていると語ってくださった。
 日本は戦後、ずっと平和であった。世界の手本になるような国であったと思う。戦争の悲惨さを体験してきた世代だからこそそれができたのかもしれない。だんだんと戦争を知らない世代が増えてきた。ここで、新しい世代である僕たちがどう動くかで平和が維持されるか否かが決まってしまうような岐路に立たされていると思う。多くのかたりべたちに学んだことを活かして今後自分にできることは何かを考えていきたい。
 人間は学習すると同時に繰り返す生き物である。二度と惨劇は繰り返さないようにしなくてはいけない。歴史に学ぶとは、そういうことをいうのだ思う。

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