2005年02月17日 松野聖史
【要旨】
このところ、「国際的な日本人」が非常に求められる社会になってきた。インターネットの普及や、多くの企業の外国への進出。外資系の企業の日本への参入と、まさに社会全体が国際的になってきている。行政によっては、小学校で英語を学ばせようと実施していたり、今後実施するところが見られるようになってきた。この点において、僕は疑問を感ぜずにいられない。「真の国際的な人間」とはどんな人間であり、そのために今何をしなくてはいけないのかを論じた。
【キーワード】
国際的 英語 日本語 母国語 主張 伝える 真の国際的な人間
9月より、現在の勤務校にあたらしいAETの先生が赴任した。AETの先生は日本の学校システムにそぐわない、秋交代制(アメリカなどの年度制)をとっているようで、この9月に来たわけだ。現在2月。まったく日本後が話せなかったその先生は、11月くらいにすでに片言ではあるものの日常会話ができ、現2月では、普通に日本語で会話ができるレベルになっている。では、日本の高校生はというとどうだろうか。中学校3年間+高校3年間。教育を普通に受ければそれだけの年月英語を学んだことになる。で、結果は・・・。ご存知のように、外人が近づくと逃げる。できれば会話などしたくないしされてもわからない。そんな生徒が大半である。(もちろんそうでない生徒もいるが)随分前からこの結果は変わっていないし、いろんな方面で問題視されている。
さて、そういう現状を踏まえてかどうかはわからないが、小学校で英語を学ばせようと実際しているところもあるし、実施間近のところも増えてきているようだ。僕は、それには疑問を感じており、願わくは中止してもらいたいと強く思っている。なぜ僕が、この「国際的な人間」を早い段階で生み出そうとしている教育に疑問を感じているのかを順を追って述べていくことにしよう。
そもそも「国際的な人間」というのはどういう人間をいうのか。よく、企業とかの求める人材として「国際的な人間」というものがある。昨今、インターネットの普及にはじまり、多くの企業の外国への進出や、外資系の企業の日本への参入と、働く場所にも多くの国際的な風が吹いているのはご承知のことと思う。職場の隣の席は、外国人であったりするのもあたりまえになろうとしている。そういう時代背景によって、おそらく「国際的な人間」が必要とされているのだろう。つまり、時代の必要としている「国際的な人間」とは、外国人と円滑にコミュニケーションができる人間というような意味合いと考えられる。
多くの人が、そのためには世界標準語と化している「英語」を流暢に操れることだと錯覚しているのだ。つまり、「国際的な人間」=「英語が話せること」という図式が頭の中にこびりついて離れないようなのである。コミュニケーションの手段として実際には英語が用いられることが多いため、その図式が違っているとは到底感じられないのではないか。しかし、この「国際的な人間」=「英語が話せること」という図式は大きな誤解と錯覚だと僕は主張したい。
言葉が操れることとコミュニケーションができることは全く異なるということだ。言葉が操れるというのは、日常生活で困らない程度の会話ができるようなことをいうのであり、コミュニケーションできるというのは、双方の意見を互いに理解し批判し、新たなる認識を得るような一連の流れのことをいう。おわかりかと思うが、コミュニケーションができなくては、「真の国際的な人間」にはなれないのである。また、多くの企業や今の日本社会が必要としているのは実はこのコミュニケーションができる「真の国際的な人間」であるはずだ。
では、コミュニケーションに不可欠な能力を探っていこう。まず、もっとも大切なことは「自分の意見を相手に伝える能力」だろう。そして、「相手の意見を理解できる能力」も必要だ。最終的には、「互いの意見をよく吟味し、自分の結論を導き出す能力」が必要である。これは極端かもしれないが、最低限この3つの能力があれば、コミュニケーションが可能になると僕は考える。逆に、これらの能力が欠けているとコミュニケーションができていないと断言したい。そして、時代の必要としている「真の国際的な人間」像もこの3つの能力を持つ人間ということになる。
お気づきかと思うが、3つの能力の中に「英語が流暢に話せること」はない。僕は、「真の国際的な人間」には、その能力は最低限必要だとは考えていないからだ。はっきり言ってしまえば「英語が話せなくても真の国際的な人間に十分なれる」・・・というか、「真の国際的な人間は英語が話せることではない」ということに多くの人が早く気づいてもらいたいのである。
では、どのような人間が「真の国際的な人間」なのか。それは「自分の意見をしっかりもって、それを相手に伝達できる能力をもっており、相手の意見を理解でき、それらを踏まえて結論が導ける人間」である。言葉の壁などトランスレーターを通せば事足りるのでほとんど障壁とはならないのである。むしろ、自分の意見がしっかり表現できないほうが問題なのだ。
「真の国際的な人間」になるために今しなくてはいけないことは何か。それは、日本語(母国語)で、自分の意見を相手に伝えられるようにすることである。言い換えると、自己表現ができるようになることだ。自己表現をするためには、まず、自分が考えを持たなくてはならない。それにより、自ら主体的に考える能力が育っていくはずだ。また、相手にそれを伝えなくてはならない。表現力が育っていく。また、相手考えや主張が理解できないと自分の主張もできないので、相手の言う内容の理解力も必要になる。それが言葉であったり、文章であったりするかもしれないが、その経験を今度は自らの表現に生かしていけるであろう。
そもそも教育の最終目標は、今述べている「自己表現をできるようにすること」にあったはずだ。ところが、昨今ではその目標がほとんど有名無実化しているのではないか。人が人として生きてゆくために必要となるであろう能力である自己表現ができない若者が多いのが、それを雄弁に物語っているといえよう。つい昨日の新聞で、「総合学習」の再検討に関する記事を見た。本来の教育の目標を思い出し、空いた時間をぜひ母国語学習へ。読み書きはもちろんだが、読解力と表現力の強化にあててほしい。以上のような理由で、僕が、教育行政がしている(しようとしている)小学校段階での英語学習には全くもって教育的意味は薄いと感じている理由がおわかりいただけたかと思う。
最後にもう一度だけ繰り返したい。「真の国際的な人間」=「自己表現ができること」である。自己表現ができるようには教育では何をせねばならないか。小学校段階で英語など学んでいる余裕はないのだ。とっととおやめなさい! より「国際的な」人材を生み出すために、今すぐ方針を変更していただきたい。・・・聞いてますか? 教育行政関係の皆さん!! 多くの市町村がそれに気づいて、多くの保護者がその意味を理解し、本当に我が子に必要なことはなにかを今考えねばならないのです! このまま、先にどうなるかをよく考えない教育行政が続くようなら、我が子の教育は保護者であるあなたたちにしかできません! これからの21世紀を担っていく子どもたちをぜひみんなの手で「真の国際的な人間」に育てあげましょう!
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