2005年01月27日 松野聖史
【要旨】
1月も近づくと、いろんな塾の広告が新聞にはさみこまれてくる。最近特に感じるのが、「板書が変わる! CGや動画を利用した数学(算数)や理科の授業でわかりやすい!」という宣伝文句が多いことだ。これは実は大きな問題なのである。そこで、静止画と動画の受け取り手の違いを軸に議論していこうと思う。
【キーワード】
塾 板書 CG 動画 算数 理科 わかりやすい わかる できる 想像力 思考力 創造力
このところ毎日、新聞に塾の広告が入っている。高校入試や中学入試、新年度を狙っての生徒獲得作戦なのであろう。合格した高校名と人数や、営業スマイルの講師の顔写真。「すべて自社社員でです」といっている写真はどうみても、アルバイトの学生にしか見えない。まぁ、アルバイトの学生でも賃金はその会社が支払っているので「社員」といえるのであろうが。ごまかされている保護者は多くいるのではなかろうか。
さて、そのなかで、特に目に付くデカイ広告文句がある。いろんな言い回しがあるが、「板書が変わる! CGや動画を利用した数学(算数)や理科の授業でわかりやすい!」というものであろう。一昔前は、コンピュータを利用した教育システムCAIというのが流行った時代があった。ゲーム感覚で問題が出され、それに答えていくというような独り学習システムだ。この頃の流行は、同じコンピュータを使っても、CGや動画を授業内で利用しているというわけだ。
これに関して僕は言いたい。CGや動画を利用した授業は最低である! 特に、小中学校段階におけるCGや動画の利用は避けるべきだ! なぜ、これほどまでに、CGや動画がもてはやされるのか僕にはわからない。授業というのは、バーチャルな映像で成り立たせてはならないのである。なぜ、僕がCGや動画を嫌うのか、順を追って説明していこう。
「えほん」というものがある。だいたい30ページくらい。ページ全体の絵があり、言葉はほとんど無い。次のページにはいると、絵はまた変わる。小さい子どもは、それを一生懸命見て、楽しんでいる。お母さんやお父さんは、作者の書いた言葉はもちろん、それ以外のいろいろなことを語りかけながら、子どもとコミュニケーションをとっている。読み手によって、同じ絵本なのに色々意味が変わってくるようなこともあるはずだ。五味太郎氏の絵本などは、それを狙って描かれたものが多い。一方、「アニメ」というものがある。原作は「えほん」のアニメも多い。これは、ボーっと見ていると、主人公が動き、話をして、物語が進んでいく。基本的には自分独りで楽しめるものだ。お母さんやお父さんがいなくても、子どもは静かに映像に見入っている。
では、両者の大きな違いは、どこにあるのか。これは、想像力や思考力と大きな関係があるのだ。小さい子どもにはなるべくテレビを見せないようにすべきであるとは昔から言われていることだ。たしかに、独りで静かに集中してテレビを見ているので忙しいお母さんは、どうしてもテレビをつけっぱなしにして子どものおもりをさせがちである。日本語が絶え間なく流れてくるので自然と日本語が覚わる・・・わけではないらしい。小さい頃にテレビにおもりしてもらった子どもは、コミュニケーションがうまく取れないようになったり、なかなかしゃべれるようにならないということがわかってきている。たとえば、自分の意志をお母さんに伝えようと思った時に、何をしなくてはいけないか。まず、自分のしたいことを自分で知らなくてはならない。そして、それをお母さんに伝える必要がある。どういった言葉で伝えると自分の要求がかなうか考えて、それを言葉にしなければならない。それがコミュニケーションの始まりだ。
「えほん」を読んでもらっているときに、このような能力が身についてゆくのだろう。見たことも無い「えほん」では見たことの無いものが描かれている場合が多い。そのときに、「これなに?」と読み手に聞くことでコミュニケーションが始まる。また、「〜みたいだねぇ」と自分の考えも主張できるようになってくると、今までの経験から見たこともないものを処理する、思考力が出てくるわけだ。読み手も、それに答えて、さらにコミュニケーションが円滑になっていく。一方で「アニメ」では、動画によって、細かいところまで注意がまわらない。気になった部分があったとしてもすぐ次のシーンに移ってしまうので自分で考えるひまがないのだ。もし、わからないようなものが出てきても聞いたところでテレビは答えてくれないため、聞くこともなくなり、何も考えないで単に映像の移り変わりと音楽を楽しむだけになってしまうわけだ。
これと同じことが、塾の提唱している「わかりやすい授業」に当てはまるといえばもうおわかりか? 算数で図形の問題が出たとしよう。大人の感覚では、立体が3DのCGになってぐるぐる回ることで、なるほどと思うかもしれない。しかし、子どもたちにそのなるほどを安易に味あわせてよいのだろうか。動かない、問題用紙に書かれた図だけ(場合によっては文字だけ)で、子どもは必死に考え、想像力を働かせ、何もない頭の中で、立体を作るように努力しなくてはならないのだ。苦しまなくてはならないのだ。何もないところに自分の思考力で新たな物を想像で創造できるような創造力を養わなくてはならないはずだ。
塾の提唱している「わかりやすい授業」によって、子どもたちは、今後の人生に大切な思考力を削がれ、創造することの楽しさを知ることなく、時代の求めている創造力を全く持っていない大人になっていくわけである。多くの保護者がこの広告の真の意味を理解せず、我が子を能無し人間に高いお金を払ってまでしているというのが昨今のようで、あきれて物も言えない。塾に行けば「わかる」し「できる」ようになるかもしれないが、目先のテストができても将来能無し人間になっては意味のないことなのだ。それよりは、今「わかろう」とする心を育て、その結果「できない」としても、長い目で自分の子どもを見てやろう。そして、「えほん」の語りかけのように、常にコミュニケーションをしつづけよう。
最後に、では、理科の授業などに求められている、実物を持ち込んだ授業はどうなのかを述べておこう。実は、実物を持ち込んだ授業は非常に意味があると思う。バーチャルな映像ではなく、目の前に実際にあるので、触れたり、より深く観察できたりするからである。3DCGとの違いはないではないかと思うかもしれないがそれはちがう。要は、勝手にくるくる回るか、自分で手に取ってくるくる回すかの違いが大きいのだ。算数や数学の立体の問題においても、CGによる映像をバーチャルで動画で見るのでは何も考えない。目の前に模型としてその立体があると、こっちから見るとこうなるだとか、あっちから見たらこう見えるといったように、受動的ではなく能動的に模型が利用されるからだ。つまり、想像力を働かせながら自分で模型を回転できるというわけだ。
静止画と動画のどちらが教育現場で必要か? もうおわかりだろう。静止画である。動画はご法度だ。3次元的な立体などを扱う場合は、3DCGではなく、実際に模型を持ってくることが必要だ。時代の流れでコンピュータが発達して便利になったような気がするが、大きな罠がそこにあるのだ。
そういえば、テレビゲームも変わった。僕の世代はファミコンだった。字はひらがなばかりで、ドットの荒い16色のCGで、ポートピア連続殺人事件ではビープ音の登場人物たちに疑いを持ち、スーパーマリオブラザーズではウルテクを駆使してクリアタイムを競い、ドラゴンクエストのような字ばかりのRPGに燃えたものだ。チープな効果音であったが全く気にならなかった。それが今は、プレイステーション2か。キャラクターは喋りまくるし、音楽もフルオーケストラだ。演出は映画のようで、感動を与えてくれるシナリオだ。文字が出ているが、ほとんど読む必要の無い推理ものや、コマンド選択が皆無に等しいアドベンチャーゲーム、格闘ゲームは3DCGのキャラをいろんな角度から見ながら扱う。ところが僕は、ヘボイドット絵で、しゃべらない昔のゲームのほうが個人的には楽しかった。では、何が今と違うかというと、想像力を働かせることができたからであろうと思う。目一杯演出された、昨今のゲームでは考える必要が無い、想像する隙を与えてくれない、そういう受身に徹した感じがどうも楽しさを削いでいるのではないかと思う。
つまり、人間、アクティブでなければいけないのだろう。想像力を駆り立てる、「えほん」やドット絵のようなものこそが、大人はもちろん、小中学校段階では特に必要なのだ。子どもたちにゲームをやるなとは言わない。やるならば、ファミコン時代のようなレトロ系のゲームをおすすめする。・・・先日、ファミコンの生産がついに終了となった。とても個人的には残念だ。
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