文化祭のありかた

2004年9月1日 松野聖史

【要旨】
 今年もまた文化祭があった。学校行事の一つであるが、自分の高校時代の意気込みと比べて、生徒が断然冷めているのが気になる。文化祭が本当に"文化の祭り"になっているのだろうか。そのあたりを考えてみた。
【キーワード】
 文化祭 学校祭 高校生

 毎年、文化祭になると感じることがある。このところの文化祭の質が下がってきている。生徒の意気込みもほとんど感じられない。自分が高校生だったときは、文化祭実行委員になって、自分たちですべて立案し、企画し実行したのが懐かしい。まさに"生徒のための生徒による文化祭"だったと思う。ところが、最近の文化祭は、"教員による誰のためかわからない文化という香りがかろうじてする程度の文化祭"であると感じてならない。(たまたま自分の勤務校がそうであるだけかもしれないが・・・)
 文化祭に何をしようかと、LHRで話し合ったとき、「何もしないのがいい」とか、「俺には関係ない」という意見がちらほら聞こえる。どうも、最近の高校生は文化祭などやりたくないというような考えが強いのだろう。まぁ、どんなことに対しても、無気力で、いいかげんにやって、なんとなく過ぎてゆけばいいと思っている風潮が強いので、そのような考え方が文化祭にも出ているのかもしれない。
 前任校では、それでも、演劇が盛んなところで、3年生は毎年演劇をするという伝統があり、夏休みを返上でクラスごとに演劇に取り組む姿があった。演劇部がここぞとばかりにクラス全員を自分の配下に置く唯一の人格変換期でもあり、端から見ていると、人間の可能性を色々と垣間見ることができた。こういった経験や取組みこそが、僕は文化祭だと思う。それくらいの取組みができないようなら、文化祭のありかたとして、文化祭自体を廃止したほうがいい。
 ただ、3年生は演劇と決まっているので彼らは、何をすればいよいか漠然とわかっていて取り組めるのかもしれない。1,2年生は、何をするかというところから始まるため、そんなにうまくはいかない。まず、LHRで意見をもとめても、何も出てこない。やりたくないから出てこないのか、発想自体貧困なのかそのあたりはわからないが、とにかく出てこない。やっと意見が出たかと思えば、他の意見を出していない連中が、いやだいやだを連発する。文句をいうなら代案を出せと言っても、代案は出さない(出せない?)。多数決では決まらんので、担任が、結局方向性を決めることとなる場合が多い。"教員による"文化祭になってしまうのだ。
 そもそも、彼らには「文化」が何かいまいちわかっていないのではないかと感じる。「文化」は「芸術」とイコールではないので、何か作ったり演じたりするばかりが「文化」ではないが、そういうものを「文化」だと思っている感が強い。それならそれでもかまわないが、「芸術」作品を作る苦労はしたくないし、できれば避けて通りたいと思っているようなので、厄介なのだ。
 たとえば、合唱になったとしよう。歌は、いろいろなジャンルから選んで、歌うようだ。まぁ、それでもいいが、文化祭なので後ひと工夫が欲しい。歌も一から自分たちで作るとかそういう取組みができないものかといつも思う。
 音楽というと、全体ステージ企画の中で、バンドをやらせろという。バンドをすると、生徒たちが発狂するので、基本的にさせない方針だと職員会議でよく議論されてそうなってしまうが、僕は、曲はオリジナルに限れば認めてやるのがいいと思う。軽音楽もれっきとした歴史があり、分野としては文化の音楽芸術だと思う。それを議論することなく、「バンド」=「ダメ」というのはおかしいと感じる。生徒の作った歌で、全校生徒が発狂したのであれば、それは、その作った生徒の才能であり、認めてやりたいのだ。自分で作ることができないでコピーバンド止まりであれば、危険性のほうを重視してやめさせるに値するとは思うが。高校の学校祭がきっかけで、その分野で大成するような生徒が出てくることも十分考えられる。
 そのほか、演劇にせよ、ダンスにせよ、機械製作にせよ、どうも、最近の子どもには創意工夫が感じられないのだ。演劇だと、ビデオかなんかでプロの演劇を参考にする。参考にするだけならよいが、すべてを同じようにしようとする。まったく同じ舞台装置をつくり、場合によっては、アドリブまで真似して満足している。ダンスや、機械製作にしても、マニュアルどおりにしか、完成させられない。マニュアルどおりに完成させることに至高の喜びがあるのではないのかと疑ってしまうくらいちょっとしたオリジナル部分さえもない。
 自分たちで工夫し、苦労し、原作とほとんどちがったものができたというような、そういうくらいに自己解釈を進め、創造して欲しいものである。このところ滅多にそういうような取組みに出会ったことがない。
 僕は、文化祭のありかたは、ひとつには、「既製の(既存の)文化をいろいろと味わい、学び、知るところにある」と思う。大半の生徒は、無理矢理"教員が"方向性を決めてしまえば、こうした体験はできるとは思う。しかし、もうひとつの、「あたらしい文化の創造がなければならない」と強く感じる。出来合いのもののみであるなら、べつに、高校生がいやいややらなくてもいいのだ。高校生らしい解釈で高校生らしい創造性を織り交ぜた、高校生にしかできない文化の表現が見たいのである。それが高校における文化祭のありかただと僕は思う。
 最後に、この学校に来て愕然としたことがあった。3年生の文化祭のクラス出し物の大半は「バザー」なのである。既製品を安値で売るというものだ。利益は当然寄付。なかなか文化祭らしいように思えるが、「高校生が模擬店をしてどこが文化的なんだ!!!」と思った。どう一生懸命考えても、「バザー」に文化の香りは感じない。
 高校生の文化祭になぜ「バザー」? 高校生だからできるはずの本来の意味での文化祭のありかたを再度検討していく必要性が迫っているのではないか。

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